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戦後初の米国籍プロ野球選手、与那嶺要さん死去

  • 戦後初の米国籍プロ野球選手、与那嶺要さん死去

■巨人で首位打者3度、中日監督で巨人V10阻止

ハワイ出身の日系2世で、プロ野球「巨人」で首位打者3回、中日監督として巨人の10連覇を阻むセ・リーグ優勝を果たした与那嶺要(よなみね・かなめ、本名ウォレス・カナメ・ヨナミネ)さんが昨2月28日午後9時45分(日本時間1日)、前立腺がんのためホノルル市内で死去した。85歳だった。葬儀は今週末にホノルルで行われる予定で、後日、東京でお別れの会が開かれる計画。喪主は長男、ポール氏。

日系人で初めてプロフットボール選手となったが、怪我で野球に転向。米マイナーリーグでプレー後、1951年にプロ野球で戦後初の米国籍選手として巨人に入団。安定感のある左打席から左右に打ち分ける巧みな打法、フットボール仕込みの果敢な走塁、猛スライディングなど持ち味の激しいプレースタイルで、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された「日本の野球を変えた」と高く評価された。セーフティーバント(バントヒット)などの新戦術は、与那嶺さんがもたらした、されている。

54、56、57年に首位打者を獲得。57年にMVP。中日移籍後の62年に引退、複数球団のコーチを経て72年から中日監督。74年に10連覇がかかる古巣巨人を制し、リーグ優勝を果たした。88年の日本ハムコーチを最後に一線を退いた。94年に野球殿堂入りし、日本のプロ野球で活躍した米国人選手は多いが、殿堂入りを果たしたのは与那嶺さんが唯一。88年シーズンを最後に帰国し、故郷ハワイで悠々自適の日々を送っていた。ホノルル国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズ、巨人時代、中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。

■与那嶺 要(よなみね かなめ、本名Wallace Kaname “Wally” Yonamine、通称ウォーリー)

 1925年6月24日、ハワイ州マウイ島生まれ。父は沖縄県、母は広島県からの日系移民2世

“戦後初の米国籍プロ野球選手、与那嶺要さん死去”のコメント (1)

  1. World Spinner

    戦後初の米国籍プロ野球選手、与那嶺要さん死去 | ハワイロード

    Here at World Spinner we are debating the same thing…

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