オータサン、90歳の誕生日に国民芸術勲章を授与される
ハワイ出身で「オータサン」という名で親しまれているウクレレ奏者、大田ハーバート・一郎さんが、90歳の誕生日である2024年10月21日に、国民芸術勲章(National Medal of Arts)を授与されました。
国民芸術勲章(National Medal of Arts)は、米国連邦政府が芸術家や芸術支援者に贈る、アメリカにおける芸術分野での最高の栄誉です。この勲章は、米国の芸術に対する卓越性、成長、支援、そして未来への可能性に貢献した個人や団体が受けるもの。受賞者には米国大統領から直接叙勲されることが多く、その場での授与は一生に一度の特別な瞬間となります。
今回、オータサンは高齢に伴う健康上の理由から、ハワイからワシントンDCまでの移動が難しいため、式典後にハワイへ勲章が届けられることが決定しました。
オータサンの音楽の軌跡:ウクレレと共に歩んだ人生
1934年、ハワイ州ホノルルに日系二世として生まれた大田ハーバート・一郎(オータサン)は、7歳の頃、母親からウクレレを習い始めたのがきっかけで、ウクレレに夢中になりました。毎日練習に励み、9歳でコンテスト番組「KGMBアマチュアアワー」に出場して優勝し、初の賞金$10を手にしたのです。これが、彼の音楽キャリアの最初の大きなステップでした。
12歳の時、オータサンは当時18歳だった伝説的ウクレレ奏者エディ・カマエと出会い、大きな音楽的影響を受けます。この出会いは彼にとって、音楽家としての成長を支える原動力となりました。
1953年にはアメリカ海兵隊に入隊したオータサン。1955年には本土で「エド・サリヴァンショー」のオーディションに合格し、全米の視聴者の前で「マラゲーニャ」を演奏。このパフォーマンスによってウクレレの持つ可能性と魅力がアメリカ中に広まり、ウクレレが新たな注目を集めるきっかけとなりました。
その後、日本に駐在していた際、エディ・カマエの紹介でビクターの灰田有紀彦と出会い、ウクレレのソロレコードを録音することに。この経験はオータサンと日本の芸能界を長く結びつけるきっかけとなり、彼の音楽人生をさらに豊かなものにしました。
退役後の活躍と「オータサン」の誕生
米国海兵隊で11年間勤務した後、オータサンはハワイに戻り、退役軍人援助法の恩典でハワイ大学に進学。社会学を専攻しつつ、バーバラ・スミス教授から音楽理論を学び、音楽への理解をさらに深めました。1964年に卒業すると、音楽の道を選び、フラ・レコーズのダン・マクダーミッド・シニアとの出会いが大きな転機に。彼は「オータサン」というステージネームを提案し、これが今や世界中で知られる名となったのです。
オータサンが初めて録音したシングル曲は「鈴懸の道」と「森の道」。しかし、これらのタイトルはアメリカ人にも覚えやすい「スシ」と「ボンサイ」という名前に変更され、「スシ」がハワイで大ヒット!彼の名前は一気に広まりました。
ウクレレ教育と国際的な活動
1969年から1980年代にかけて、オータサンはウクレレ教育にも尽力。「学校のアーティスト」プログラムで小学生にウクレレの魅力を伝えたり、ハワイ大学で教えたり、さらには自宅のウクレレスタジオでのプライベートレッスンも行いました。また、ワイキキの数々のホテルやラウンジで定期的に演奏を行い、その活躍は米国本土、日本、ブラジル、カナダなど、世界各国でのツアーやワークショップにまで広がりました。演奏活動や数多くの作曲・アルバム制作を通じて、オータサンはハワイ音楽とウクレレの素晴らしさを世界に発信し続けました。
オータサンと「ソング・フォー・アンナ」:世界に響いたウクレレの音色
オータサンのキャリアの中でも、特に輝かしいハイライトの一つが1973年にリリースされた「ソング・フォー・アンナ」です。フランスの作曲家アンドレ・ポップがオータサンのために作曲したこの曲は、1974年に世界的な大ヒットを記録し、600万枚以上を売り上げました。ウクレレの美しい音色が世界中に響き渡り、オータサンの名前は音楽界で不動のものとなりました。
その後もオータサンは、ハワイのグラミー賞とも呼ばれるナホクハノハノ賞のインストゥルメンタル部門で数々の賞を受賞。さらに、ライフタイム・アチーブメント賞、ウクレレ・ホール・オブ・フェイム殿堂入り、そして2011年には日本国政府から旭日単光章を授与されるなど、彼の功績は国際的に認められてきました。
「長生きして良かったと思える、とても光栄な勲章です。これまで私を支えてくれた家族や、世界中のファンの皆様、私を推薦してくださった皆様、そして天の神様やご先祖様に、心から感謝します」とオータさんは語っています。
オータサン、90歳のお誕生日、そして国民芸術勲章受賞、おめでとうございます!