零戦パイロットかくまった夫死去、妻は恨み言残さず
ニイハウ島事件とは?
太平洋戦争の幕開けとなった真珠湾攻撃の際に不時着した零戦。そのパイロットをかくまった美談の裏側で、日系2世の家族が見舞われた苦難の人生。日米両国の狭間で翻弄された妻や子供達。ハワイで「ニイハウ島事件」と呼ばれている史実をご存知でしょうか?
1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、真珠湾第2次攻撃のため、航空母艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(零戦)がエンジンの故障で不時着したことから起きた事件。当時、ニイハウ島には軍事施設がなく、万が一の時は日本軍が不時着地に指定していたそうです。パイロットは西開地重徳(にしかいち・しげのり)一飛曹(海軍一等飛行兵曹)。軽傷ながら、島民たちが手厚く看護したという。ところが、住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。帝国海軍の軍人にとっては機密書類と拳銃。当然、住民との間に緊張感が漂った。
間に入ったのが、カウアイ島から農場管理人として働きに来ていた日系2世の原田義雄さん(当時39歳)と妻の梅乃さん夫妻。西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されたが、原田さんも自害。米国人でありながら、両親の国で敵国だった日本軍に加担したジレンマからだった。
ニイハウ島は今では、ロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承。許可なしには上陸できず、カウアイ島からヘリコプターや船のチャーターで行くことが許されています。
この史実に関しては、英語ではThe Niihau Incident( Allan Beekman著、出版社 Heritage Pr of Pacific)や日本語でも「真珠湾の不時着機―二人だけの戦争(河出文庫、牛島秀彦著)に詳しく記されています。
22日の「読売新聞」に、タイトルのような記事が掲載されていました。ハワイでは、「ニイハウ島事件」として何度か聞いたことはあったのですが、外務省文書の公開からという詳細な内容だったので興味をひかれ、以下にほぼ原文のまま抜粋して、ご紹介させていただきます。
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真珠湾攻撃の際に不時着した零戦飛行士をかくまった、日系2世の原田義雄さん(当時39歳)の妻梅乃さんは、「国家反逆罪」の汚名を背負いながら、女手一つで3人の子供を育て上げた。「何回か自殺を決心した」。22日付で公開された外務省の文書からは、“美談”の裏側で、日米両国に翻弄(ほんろう)された苦難の人生が浮かび上がった。
ニイハウ島に不時着した西開地重徳(にしかいち・しげのり)一飛曹(戦死後少尉=当時21歳)と義雄さんが、奪われた地図とピストルを取り戻そうと島民と戦った末に亡くなったのは、真珠湾攻撃から6日後の1941年12月13日(現地時間)。梅乃さんはまもなく国家反逆罪で逮捕された。2年9か月の収容所生活を経て釈放されたが、世間の目は冷たかった。
梅乃さんは在ホノルル総領事に当時の苦悩を打ち明けていた。
〈幼児を抱え、その生活を考え途方に暮れ、何回か一家自殺の決心をした〉
3人の子供の将来を考え自殺は思いとどまるが、生活は楽ではなかった。
〈洋裁を習い、夜を日についで働いた〉
義雄さんの弟は、兄の汚名を晴らすかのように米軍の日系2世部隊に志願したが、梅乃さんは、愛媛県今治市に住む西開地一飛曹の遺族に恨み言を並べることはなかった。
西開地一飛曹の弟、良忠さん(78)は68年、カウアイ島に移っていた梅乃さんを訪ねた時のことをよく覚えている。梅乃さんのいとこが、「梅乃はひどく苦労した」と良忠さんを非難すると、梅乃さんはすぐに、「そんなことを言ってはいけない」といさめたという。
仏壇には、兄の写真が義雄さんの遺影と一緒に飾られていた。この時は元気だった梅乃さんも、「十数年前に亡くなったと聞いた」(良忠さん)。
55年に西開地家に初めて届いた梅乃さんの手紙にはこう書かれていた。
<わづか一週間のお知合でしたけど、とても深く印象付けられ、とくに故原田とはとても仲好く、深く語り合ひ、共に戦ひ、手に手を取って長い旅路へと立たれました。其(その)間とても御満足に見受けられました>(表記は原文のまま)
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日本もハワイも、Merry Christmas & Happy New Year!
不景気の波が押し寄せてきたとはいえ、遠く彼らの犠牲のもとに築かれた今の繁栄と平和ボケを享受できる幸せを意識していなかっただけに、ふと出会ったこの記事。ジングルベルで浮かれる街並みを歩きながら、何かしら考えさせられたのでした。今のままでいいのだろうか、と。合掌
[…] 撃を収録したフィルム、戦闘シミュレーターなど、数多くの展示物があります。零戦1機は飛行可能な状態で、もう1機は戦争中、ニイハウ島に不時着して残されたものが展示されている。 […]