対立から対話へ、戦争から平和へ
ハワイ時間の今日12月7日(木)は、今年で65回目となる日米開戦の歴史的な「真珠湾攻撃」の日。朝、カウアイ島に滞在中のホテルで、食事をしながらテレビを見ていたら、午前7時40分からパールハーバーのアリゾナ記念館を背にした埠頭(ふとう)で始まった追悼セレモニーに、退役軍人ら約4000人が参加している光景が放送されていました。
ここ数年は、かつてのジャパン・バッシング的な報道姿勢から、旧日本軍の生存者らも会場に招いて、悲惨な過去は繰り返さないという日米友好ムードあふれるセレモニーの色合いが濃く、途中、日本語の通訳まで入る気配りが感じられる式典となっています。
ちょうど、昨日訪れたリフエにあるカウアイ博物館で行われていた特別展では、65年前の地元紙の1面トップ記事が = 写真 = のように展示されていました。
ざっと目を通すと、1941年12月7日午前7時54分、183機に上る日本軍のゼロ戦が真珠湾を奇襲。戦艦アリゾナなどわが国の戦艦を攻撃し、続いて第2陣の170機がベローズやフォートアイランドを攻め、民間人を含む2388人が死亡しました、というような趣旨の内容でした。
かつて私もこの記事を書いた記者と同じ、新聞記者の端くれだったので、当時のジャーナリストの立場は痛いほど分かるのですが、最近の専門化の研究などでは、果たして本当に「奇襲」だったのか? 実は仕掛けられた戦争だったのではないのか? など実にユニークで傾聴に値する多彩な議論もかなり有力になってきています。
ともあれ、65年後の現在は、対立から対話へ、戦争から平和へ、という流れが一部の国や地域を除けば確立されてきています。私見ですが、悲惨な過去は今後もずっと語り継がれていくことで意義を増し、過ちを繰り返さないための歯止めの一つになると信じています。当時の生存者は5年に1度はパールハーバーに集まっていますが、彼らの年齢から5年後の70回目の記念日にはもう集まることはないのでは? という声が残念ながら支配的です。
ウチのコンドミニアムの隣に住む日系人のおばあちゃんが以前語ってくれた「子供のころ、カネオヘの方から日の丸がついたゼロ戦がいっぱい飛んできたのを見たの。今でも忘れられない」と話してくれ、その後、多くの日系人と同様に当時ハワイでは敵国人扱いされて辛酸をなめたそうです。
今日、ハワイ各地で奇襲攻撃が始まった午前7時54分に黙祷が捧げられました。ハワイが大好きなわれわれスタッフは、日本人観光客はもちろんのこと、次のステップとしてハワイロードを通じてハワイの人たちにも貢献できるような仕事をしたいと、強く誓い合っています。