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真珠湾のビジターセンターに「禎子の鶴」

■日米の絆にと遺族が寄贈■

広島市の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルで、原爆症のためわずか12歳で亡くなった佐々木禎子さん(ささきさだこ、1943年1月7日 – 1955年10月25日)が生前に作った折り鶴の一つが、パールハーバーのビジターセンターに寄贈され、22日に記念式典が行われた。折り鶴は、禎子さんが病床で回復を祈りながら、当時のキャラメルの包み紙で折ったもの。禎子さんの遺族が保存していた。

寄贈されたビジターセンターは、訪問者らに日本軍による真珠湾攻撃を映像や展示などで解説する施設。世界中から観光客らが訪れるが、太平洋戦争の幕開けとなったパールハーバーに、原爆被害の悲惨さを訴える折り鶴を展示することで、過去の遺恨を超えて、日米がより絆を深めるのに役立てる目的で、遺族が寄贈した。

禎子さんは、広島市に住んでいた原爆の被爆者で、原爆の子の像のモデル。シアトルの平和公園にも銅像がある。2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録。彼女の物語は、中学3年生向けの英語教科書「NEW CROWN」(三省堂)に、対話形式で原爆の破壊力、平和の大切さ、佐々木禎子という人物、折り鶴などについて英文で掲載されている。

1945年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。

54年8月の検査では異常なかった。が、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、翌55年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。

同年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始め、病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて折り続けられた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超えた。

だが、禎子の願いは届かず、55年10月25日、12歳で亡くなった。禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた・・・

 

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